メンタルてちてち

心理系、福祉系の話題が多いです。少しでも皆様に役立つ情報を発信できればと思います。

対人恐怖で人が嫌いという人へ。最大の対処法は「そのままでいる」ということです。

 
 「人と関わることが嫌いです」という人、いるのではないでしょうか?
 様々な原因が考えられますが、共通するのはあまり過去の対人関係で好意的な感情になれなかったケースが多いのではないかと思っています。
 
 今日は、是非そのような人達に見てほしい記事を書きたいなと思っています。
 「人と関わるのがなんとなく嫌だな。」「もうできることならずっと一人でいたい。」と考えている人がいれば、悪いことは言いませんので是非この記事をご覧いただけたら嬉しいと思います。

大前提として、人が嫌いなこと=悪い事ではない

 人が嫌いだ。と思うことが、悪いことなのではないか?と思っていないでしょうか。そしてそれが、自己否定感情に繋がっているのではないでしょうか。私はどうしてもそんな気がしてならないのですが、そのように思う必要は全くありません。
 あなたが「人が嫌い」と思っていることは、必然なのです。自分に人と関わる気質がないのではないか?とつい思ってしまいがちですが、それは間違いです。今までの人間関係や自らが身を置いてきた環境がそのようにしているというだけの話で、あなた自身はなんの関係もないと言っても過言ではありません。まずここを理解してほしいと思います。
 
 しかし恐らく、この前提が理解できたとしても「人が嫌いでは、人と良い関係が築けないのではないか。自分は存在してはいけないのではないか。」と思うかもしれません。
 私もそのように思ったことありますし、そのような相談を受けたこともありますから、その気持ちはわかっているつもりです。それにつきましては、後で説明したいと思います。

人が嫌いな自分を変えようとしてくる人は無視して良い

 恐らく、この問題を複雑化させている一要因として、上記のような人がいることが問題であると思います。
 「人が嫌いだと、良い関係が築けないよ。」というような、良かれと思って手助け風の追い込み発言をしてくる人がいるんですよね。まあ正直、厄介という他ありません。(笑)
 もちろん、あなたのためという部分もあるのではないかとも思うのですが、追い込まれてしまうだけだと思うのです。恐らく、+αとして自分への好意的な感情に期待してしまっている、いわば下心的な部分もあるのではないかと考えています。
 ですから、大半はエゴだと思って良いと思います。「きっとこの人は甘えん坊さんなんだなあ。」という感じで、軽く受け流してしまって良いと思いますよ。

そのような自分を受け入れてくれる人から、順番に少しずつ関わってみる

 とはいえ、対人関係が幸福感に左右するということも事実です。そのようなことを感覚的に理解しているからこそ、どうしても心の奥底に存在する不安感はぬぐえないのではないかと思います。
 ですので、そのような自分の性質を受け入れてくれたり、理解を示そうとしてくれたりする人から優先的に関わってみてはいかがでしょうか。また中には、同じような考えを持っている人がいるかもしれません。好意的な印象をもてるかどうかはともかく、そのような人はあなたの考えを否定したり、批判的に関わろうとしてきたりする可能性は低いのではないかと思います。
 
 

動物や物、自然など人以外のものに関心を向ける

 人では生き物にも、素敵なものは沢山あります。中にはあなたに対してとても親和的で、関わりやすい生物もいるのではないかと思います。相手が誰であれ、どうしても人と関わることが苦しいという場合は、人以外のものに愛情を育んでいくというのもありかもしれません。
 

まとめ

 
 いかがでしょうか。
 後半は、自らの環境作りの話を少ししましたが、一番私が言いたいのは「自分を否定する奴の言うことは無視して良い。」ということです。はい。無視で良いです。気にする必要はありません。
 良いんですよ。人と関わらない職業はいくらでもあります。無理に人を好きになる必要などないと思います。
 何故このように言うかというと、単純ですが、あなたに「他者を嫌いな自分を否定してほしくない」という願いがあるためです。
 
 「自分の過去は良くない」って思うかもしれない。けどその過去も、皆さんが精いっぱい生きてきた大事な過去だと思うのです。だから是非自分の過去を否定しないで。自分自身の考えを否定しないで。
 そのような願いを込め、このブログを締めたいと思います。


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早く気が付いて!多くの人が勘違いしている幸せの本質とは

 皆さんは、「幸せってなんだろう?」とか、「幸せになるためにはどうしたら良いんだろう?」と一度は考えたことがあるのではないでしょうか。また、もしかしたら周りでもそのようなことを言っている人がいるかもしれません。

 

 僕自身も考えることがあります。そうして考えを深めたり、また様々な経験を積んでいくことで、とある重要なことに気が付きました。人によっては、40歳になっても50歳になっても気が付くことができず、やりきれない時間を過ごしている人もいるのではないかと、見てて思うことがあります。

 今回のこの記事では、多くの人が勘違いしがちな幸せの本質について記事にしていきたいと思います。これを読めば、人生の幸せについて新たな発見があるかも・・・ 

 ということで、早速本題に入っていきたいと思います。

 

 本当の幸せは、人の外部ではなく内部で決まる

 「幸せの本質は、人の外部ではなく、内部にある。」

 名言っぽいですね('ω')

 これは、誰かが言っていたでもなく、本に書いてあったでもなく、僕が勝手に言っていることです。(笑)しかしこれに気が付いた時、僕は「あ!これだ!」と思いました。

 

 ここでの外部とは、人間の体の外に存在するもの全てです。例えば「良い車に乗る」「素敵な恋人と付き合う」「お金持ちになる」といったようなものです。幸せをイメージするときに考えがちな要素ですが、これらのものは全て外部のものと定義します。

 確かに、幸せを増強させてくれる要素は沢山外部にちりばめられていると思います。    

 それこそ、上記の例のようなものが手に入るというだけでも、十分幸福感に影響を与えると思います。しかし、元に存在した幸せに仮に働きかけることができたとしても、それが本質というわけではなく、それら理想の要素を沢山用意したからと言って必ずしも幸せになれるわけではないと思うのです。あくまで、増強作用のようなものだと思うということです。

 

 では、私が本質であると感じている内部とは具体的に何かということなのですが、つまるところ、頭、そして心のことです。

 頭でどの情報を取り込み、心によって取り込んだ情報をどのように解析しているのか。ということです。この精度の違いが、「幸せか不幸か」という所を分ける大きな分岐点になっていると思うのです。

 例えばの話ですが、家を出て一歩踏み出すとします。その日は晴天に恵まれているものの風が強く、寒かったとしますね。その際、「あー寒くて嫌になるな。」と思う人、「晴天に恵まれていて気分が良いな!」と思う人、考え事をしていて特に何も感じない人、など様々なのではないかと思うのですが、このように同じような経験の中でも、人は異なる情報を入手し、異なるように処理するのです。

 

 この些細なことの繰り返しによって、1.01倍の幸せを増強していく人、0.99倍に不幸を増強していく人、1.00倍して可もなく不可もなく過ごしていく人に分かれていくのではないかと思うのです。これが癖になって、気が付けば膨大な数になり、やがて幸福感に差が出てくるほどになるのではないかと思います。

 よほど成功している人でない限り、突出したような生活水準になることは難しいのではないかと思います。ですので、この内部構造による区分けがより一般階層では大きくなるのではないかと個人的には考えています。

 

 

 どのように内部を調整するのか

 前述したように、外部ではなく内部環境を調整していくことが幸福か否かを大きく分けるポイントとなってくると思っています。

 では、具体的に何の内部調整を行えば良いのかということについてお伝えします。

 ここでは2つのフェーズにおける改善の余地についてお話していきたいと思いますので、ご自身にあっていると思われるほうを1つ選んで、お考えいただければ良いのではないかと思います。

 

 情報収集するものをコントロールする

 まず1つは、情報収集をコントロールするということです。ここでの情報収集とは主に、聞く内容、見る内容、感じる内容のことです。

 外に出ました。風は良いが天気が良いとします。その時、天気が良いという事実に目を向けるか、風が強いという事実に目を向けるかというようなことでしょうか。

 天気が良いことに意識がいっていれば、鳥が飛んでいるとか、飛行機雲がきれいというような新たな気付きが得られ、好意的に状況を捉えられる余地がありますよね。

 

 何に着目しどこに意識を向けるのか、という所をコントロールしていくことがまず1つです。

 マイナスなことよりも、プラスのことからの方が得られることが多い、また前向きになれるという人に、この手法が適していると思います。

 

 情報処理に働きかける

 もう1つが、情報処理に働きかけるといったことです。

 仮に外に出たとき、風が強いという事実が自分の中で先行して気になったとします。そのような時に、「ああ。風が強いなんて嫌な日だなあ。」と感じるのか、「風が強いから、今日は家に早く帰ってゆっくりしよう!」と考えるのかというような、同じ情報収集の後それをどのように捉えていくのかということです。

 情報収集の内容は同じですが、前者はネガティブな要素しかありません。しかし後者に関しては未来志向であり、前向きな印象を受けます。

 

 同じ情報の中であっても、どのように前向きに捉えていくのか。ということがもう1つです。

 仮にマイナスなことであっても、プラスに変えていこう、良い状況にもっていこうとできる前向きなメンタルをもっている人に、この手法が適していると思います。

 

 まとめ

 結局、それが何かということよりもそれをどのように捉えどのように感じるかが重要なのではないかと思っています。

 上手く肯定的に捉えられない人、マイナスな要素を前向きに捉えられない人などが、毎日の幸せを感じるという上で障害を生じさせてしまっているのではないかと思います。

 

 「良い彼氏がいたら幸せになれるのに。」とか、「お金持ちになれたら幸せになれるのに。」というようなことを言う人を見るたび、私は心の中でこう思っています。

 「違うよ!日常に幸せを感じられる心に幸せの本質があると思うよ!何かを得られたら幸せ、失ったら不幸、というわけではないよ!」

 

 この記事を読んで頂いた皆さんの日々に、少しでも潤いが与えられるような記事になっていれば幸いです。

 

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怒られるのが怖い!そんな時の対処法は?

 

 皆さんは、人から怒られるということに対して怖いと思いますか?

 多くの人が怖いと思うのではないかと思います。「怒る」という感情は、他人のメンタルを揺さぶる非常に大きな要因となり得る感情であり、極力怒られたくないと思っている人が多いのではないかと思います。

  僕も、当然怒られたくはありません。誰からに対してであれ、怒られてしまったら嫌な気持ちにはなります。しかし、それによって物凄く落ち込んでしまうというようなことはあまりないかもしれません。これは、僕なりの考え方によって自分を守ることが上手くできているからなのかもしれません。

 

 今日は「怒られる」という状況に直面した時、どのように考えて対処いけば良いのかと言うことについて、記事にしていきたいと思っています。怒られて傷心しすぎてしまっている人の光に少しでもなれば幸いです。

 

  まず、本題に入る前に前置きをします。怒りという感情は、第2感情と言われています。これはつまり、怒りという感情が第一に出ているというわけではなく、何らかのネガティブな感情が引き金となって怒りが表出するということです。

怒りの直接的なトリガーとしては、「不安」「恐怖」「焦り」のようなものでしょうか。

 このことを踏まえた上で、本題に移りましょう。

 

 

 

 

  怒る人は自分に自信がない

   すぐ怒る人というのは、決まって自分に自信がありません。自分の能力に自信がないわけですが、その中でもとりわけ自信がないのが対応力や適応力、精神力でしょう。多くの処理に追われていて非常に忙しい時、その人に辛いことがあった時、新たな環境で新たなことをしなければならない時などにすぐイライラし、抑えられないという人が多くいます。残念ながら、立場の弱い人に向かって執拗に怒ってしまうようなずるい人もこの世の中にはいますよね。

    自信の無さが、第一感情である「不安」「恐怖」「焦り」をより強く引き立ててしまい、怒りの感情を表出させやすくなってしまいます。

   

 自信が無いがために不安や焦りの感情を抱きやすい。そしてそれを自分で処理する力量がないから怒りを他人にぶつけてしまいやすい。とこんな所でしょうか。

 そうです。もうお分かりですね。すぐ怒る人は、決まって弱い人間なのですよ。

 

 怒る人に恐怖を抱くが、恐怖ほど強い拒絶はない

   例えば、「○○さんってこういうところが嫌だな。」と思ったとします。この「嫌悪」を他人に対して抱くことは、誰にでもあるんじゃないかと思います。仲の良い人にだって、ときには抱くのではないでしょうか。

 しかし、〇〇さんにも良いところもあると思います。仮に嫌悪感が強い相手であっても、どうしても関わらなくてはならないという場合、その人の良いところを探そうとできるかもしれませんね。そのほうが、自分としても楽な場合もありますしね。そうやって関わっていくうちに、関係性が良好に転じる余地もあると思います。

 

 では「嫌悪」ではなく「恐怖」を抱いている相手だったらどうでしょうか。

 もし恐怖を抱いている相手ならば、第一に考えるのは「いかにその人と関わらないようにできるか」ということなのではないでしょうか。

 この思想こそが、拒絶そのものだと思います。この拒絶は、その人のことを知ろう、その人の良いところを知ろうという意識がないどころか、その人といかに関わらないかという意識で脳を埋め尽くしてしまいますので、拒絶の中でもかなり強いものだと思います。

 また拒絶していれば当然、その人のことを知れる機会も制限されてしまうためその人の良いところや優れている部分を知る機会が少なくなり、結果的に拒絶の状態が解消されることが難しくなってしまいます。

 

 怒る人は自分で自分を追い込んでいる

 上記のように書きましたが、厳密には「他人が自分を追い込む状況を自分で作っている」ということだと思います。こう考えて問題ないと思います。

 前項によって、「恐怖を与えて拒絶の状態を自分で作っている」と記しましたが、このような他人からの拒絶の状態を作ることで、徐々に周りに人がいなくなっていきます。そして結果的に自分がさみしく辛い思いをすることになります。

 

  あなたが表面上普通にふるまっていたとしても、必ずどこかで人を怒って恐怖を与える立場の人は他者からの拒絶に気が付き、苦しい思いをすることになります。これは間違いありません。

 ですので、もし激怒している人と関わるような機会があったり、直接激怒されるようなことがあれば「あ、この人はこれで今自分を追い込んでしまっているんだな。」と考えてしまって問題ないと思います。

 

 最後に

 近年、日本ではパワハラが問題になっていますよね。実際、上司に怒られたり、取引先の人に怒られたりすることで精神的に追い込まれてしまい、辛い思いをして仕事を続けられない状態になってしまう人が後を絶ちません。 そこまではいかなくても、辛い思いをしてしまう人が多いのは事実だと思います。

 そんな状態になった時、この記事を思い出して「この人も結局自分追い込んでるんだなあ。」「自分に自信がないのかもしれないなあ。」などと考えていただけたら幸いです。(このような思想を用いることの最大の意義は、焦点がダメな自分ではなく怒る張本人にあてられることで、心の負担が軽減できるようになることです。)

 

 とはいえ、まずいことはまずいと思うので、そこを受け入れることは必要だと思います。人から指摘されたり、また時には強い口調で言われることがあるかもしれませんが、受け入れて変えていくことが求められる場面も多々あります。反省しなきゃいけないけど、自分を追い込みすぎてもいけない。そのバランスをとる必要がありますね。

 

 ここで注意!反省と自分を責めることは違いますよ!

 これは別記事で解説していますので、一緒にしちゃいがちな人は是非こちらも参考にしてみてください。

 あなたのメンタルが不調なのはもしかして、「自責」と「反省」を混同しているからなのでは? - てちてちブログ (techitechi1515blog.info)

 

 今は辛いかもしれないけれど、自分を責めない程度に悪い部分を解消し、成長につなげることができたら、あとからあの時間も良かったのかもしれないなあなんて俯瞰できるようになるかもしれませんよね。

 怒られて毎日が辛い!と思われている方の心の負担が少しでも軽減できるようになることを祈っています。

 

 拙いブログではありましたが、ここまでご覧いただきありがとうございました(^^)/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「子どもが好き」「子どもが嫌い」うん?ちょっと待って!

 

 このブログをご覧の方の中にも、「私、子ども好きなんだよね~」などと、発言している人を、何度も聞いたことがあるという方が多いのではないでしょうか。また、もしかしたらご自身がそのような言葉を使われるという方もいるかもしれません。

 

 実際、僕も児童養護施設で社会福祉実習に挑むまでは、そのように考えていました。

 しかし、子どもと関わる時間が長くなるほど、このような概念に違和感を抱くようになりました。今日は、どのようなこと部分で違和感を抱くのかということ、またどのような障害が生じるのかということなども合わせて記事にしていきたいと思います。

 

 

 何故「子どもが好き」というフレーズに違和感を抱くのか

 例えばの話です。もし、「俺って、障害者好きなんだよね~」と言っている人を目にしたら、どのように感じるでしょうか。上手く言えませんが、なんとなく変な感じがしないでしょうか?

 僕が考えるに、この違和感は障害者を一括りにし、身勝手な役割を委託している感が否めないからだと思います。例えば、「優しい」「従順」「親しみやすい」と挙げたとします。するとどうでしょうか。「うーん。一概にそうは言えないんじゃないかなあ?障害者にだって色んな人がいるだろうに。」と思いませんか?

 

  僕は、違和感を抱く人が少ないという相違点を除き、子どもにおいても同様のことが言えるのではないかと考えます。

 恐らく子どもが好き、嫌いという尺度で子どもを見ているのは、子どもを想像した時に浮かんでくる「純粋」「生意気」「素直」というような(例えばですが。)イメージを、そのまま子どもと接する中で子どもに投影させているんじゃないかと思います。 何故か相手が子どもとなると、「子どもだって色んな人がいるだろうに。」とはならないんですよね。なんだかとても不思議だなあって思います。

 

 

 「好き」「嫌い」という感情を持ち出すと、子どもと関わる上でどのような弊害が出てくるのか

 では子どものことが「好き」「嫌い」というようなスタンスで子どもと関わると、どのような障害がでるのでしょうか?

 「嫌い」という感情をもって子どもと接することで、ネガティブなことが起こりやすそうだなというのは容易に想像がつきますよね。

 しかし意外かもしれませんが、実は「好き」という感情を子どもにもって接するというのも、弊害が起こるのです。

 子どもが好き!ということにも、何らかの理由があります。「可愛い!」「純粋!」「健気!」とか、、、。一見、何の変哲もないように思うのですが、子どもに対して大人側の期待を押し付けることになりかねないというリスクがそこにはあると思うのです。

 

 もし、可愛いから子どもが好き!と言っている人の前に、可愛い!という感情が抱けない子どもが目の前に現れたらどうでしょうか。

 もし、純粋だから子どもが好き!と言っている人の前に、純粋!という感情が抱けない子どもが目の前に現れたらどうでしょうか。

 

 きっと、あまり良い感情を抱けないのではないかと思います。「子どもなのに、あの子は可愛くないわねえ。」なんて、大人が言っているのを聞いたことがある人もいるのではないでしょうか?

 しかし、僕から言わせてみると、そのような感情は大人のエゴなのです。何故可愛くなくてはいけないのか。何故純粋じゃなくてはいけないのか。という話になります。

 

 一生懸命、大人が勝手に与えた環境で、毎日頑張って過ごしている。それだけで称賛に値するんじゃないかなあと僕は思います。

 

 

 子ども達に対して好意的な感情を抱くことが悪いとは決して言いません。

 しかし、子どもに対しての期待値が高まるばかりに、大人側が抱く一方的な期待を子どもに押し付け子どもが窮屈な思いをしてしまうことは、避けるべく、留意すべき点だと思います。

 

 まとめ

 

 1人1人によって、性格は違いまよね。それは子どもに限らず、障害者であれ、高齢者であれ、外国人であれ、全て同様です。

 好き嫌い以外でも、「子どもは○○」という一括りにするような見方は、かなり危険だと思います。

 仮に子ども3人と関わったとして、3人とも純粋だなあと思ったら、「子どもは純粋だなあ。」ではなく、「A君は純粋、B君も純粋、Cちゃんも純粋なんだなあ。」という見方をするのが良いのではないかと思っています。

 それが、子どもという小集団に過度な期待を押し付けず、個を尊重するということに繋がってくると思います。

 

 

 子どもを好きになるためにはどうしたらと考える方も多いのではないかと思います。  

 そのように考えるのは、子どもを好きになれたら、子どもといい関係が構築できるし、自分としても子どもと関わる日々がとても楽しくなると思っているのかもしれません。

 

 子どもに好意的に関わることはもちろん悪い事ではありません。しかし、子どもを好きになるということよりも、子どもを一個人として尊重することのほうがよっぽど大切だと思っています。

 少しでも、皆さんにとって子どもと関わる時間が充実したものになれば良いなあと切に願っています。

 

 

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メンタルがやられるという方、もしかして「自責」と「反省」を混同してないですか?

 突然ですが、これをご覧になっている方に質問です。

 

 あなたは、反省することが好きですか?

 

 どちらでもないと答えられる方もいらっしゃるかもしれませんが、どっちかといえばNOかなと思う人が多いのではないでしょうか?

 ここですぐにNO!と自信をもって答える人は、「自責」と「反省」を混同させてしまっている可能性があります。反省することが嫌いであるという理由として、自分を責めてしまい、つらい気持ちになりたくないからということが大部分を占めているのではないかと思います。

 もしあなたが、「自責」と「反省」を混同させているのだとすると、それは自分のメンタルを良好に保つ上では最悪だと思っています。

 

 今日は、この「自責」と「反省」を混同させてしまう問題点とその打開策について記事にしていきたいと思います。

 

 

 

 そもそも、自責と反省の違いは?

 まず、具体的に自責と反省がどのように異なるのかということを、明らかにしていきたいと思います。

 「自責」と「反省」で最も大きく異なるのは、今後にプラスの側面をもたらすのかどうかということです。

 「反省」は、自分の行動について振り返りをしていくことで、今後もっと良くしていくためにはどうしたらいいのかということについて明らかにすることになりますので、確実に自分の成長につながります。ネガティブなことがあれば、「同じことを繰り返さないようにしよう。」と考えられるのはもちろんのこと、ネガティブなことがなかったとしても、「どのようにしたらより良くなるのだろうか。」と考えることができ、これは非常に有益なものとなります。

 しかし、「自責」は違います。自責はとにかく自分のことを責め、ネガティブな気持ちを増強させる行為です。「自分になど価値はないのだ。」「自分なんてダメだ。」と唱えてしまい、発生した物事に対して反応してしまうものです。この自責は、未来に向かう働きかけでもなければ、成長した自分に対しての働きかけでもないため、有益となることはありません。それどころか、何よりも自分が傷つきます。

 せっかく傷つくのなら、何か得られるものが欲しいなと考える私にとっては、なかなか辛そうな状態だなと達観してしまいます。

 

 自責と反省を混同させる問題点

 自責は悪い側面しかもたないことに対し、反省は未来に向けて非常にいい側面ももつと前項で説明させていただきました。では、もし失敗が生じたときや、自分が責められることがあったときなどの時において、自責と反省を混同させてしまうとどのような問題が生じるのでしょうか。

 具体例を挙げて説明させていただけたらと思っています。

 

 成長しにくくなる

 自分を責めていい気持ちになる人などいません。当然、私も嫌です。

 自分を責めることと反省することをほぼ同義と考えている人は、反省することに対しても嫌悪感や恐怖心を感じるため、避けてしまうのです。

 その結果、自分を顧みようとする習慣が少なくなるため、自己成長を見込むことがそれだけ難しくなってしまうのです。

 さすがに同じ失敗を繰り返していては、周りからの信頼をなくしますのでそのような別の圧力によって是正できるでしょうが、人から指摘されたことについて素直に受け入れられなかったり、低い位置で妥協してしまい、向上心が見られなかったりするような特徴が否定できないため、同じ経験をしても、成長度合いがあまり高くない可能性があります。

 

 

 完璧主義になりやすくなる

 完璧主義になりやすくなります。これも前例と同様、反省に対する恐怖から、「反省しなければならない状況」というのを極力減らさなければならないと考えてしまいます。

   その結果として、完璧主義になりやすくなってしまうのです。完璧じゃなければダメ。もし完璧にできなければ、自分を責めてしまう。というようマインドが働いています。仮に完璧にできなかった場合も、この人の見立て通り自責が働くのです。つまり、予期不安で完璧主義になり、実際に直面して自責するという二重でマイナスなことが起こっているのです。

 

  ちなみにですが、完璧主義を打破する方法するための考え方については、先日別記事について書かせていただいています。

 興味を持たれた方がいらっしゃったら、ぜひご参照ください。

 

www.techitechi1515blog.info

 

 

 

    気付いたら問題が山積みになる

  反省することを恐れるばかりか、自分にネガティブな感情が巻き起こっているという事実にも直視しずらくなってしまう可能性があります。

 何か問題が起こっているのにも関わらず、反省することが億劫だからといって放置してしまうのです。その結果、小さな問題がどんどん蓄積していき、やがて支えきれなくなってパンクしてしまいます。

 「〇〇さんとの関わり方がわからない」「クレームに対しての対処がわからない」「初対面の人とどのように会話を続けたらいいかわからない」「△△さんにどう思われているのか不安だ」などですかね。なんとなく思いついたありがちな不安を羅列してみましたが、実際にはもっと様々な問題が個々に存在していることと思います。

 

 自責と反省の混同そのものがメンタルを追い込んでしまうだけでなく、問題解決能力の低下を招き、間接的にそれがメンタルを追い込むというダブルパンチの構図なのがおわかりいただけるのではないかと思います。

 

 

 人間関係の悪化を招きやすい

 前述のように、自責と反省の混同により、反省しにくくなるというケースがあります。反省ができなくなってしまうと、素直に自分の非を認められず、もめごとに発展したり、葛藤関係をつくりやすかったりするような人がいることと思います。

   またこれがエスカレートし、「自分のことを責めているのだから、反省しなくて良いでしょ?」と考えてしまっている人が時々いるのです。

   「はいはい、私が悪いのね。」「私のせいにしてれば良いじゃないの。」「良いよ、私が悪いから私が死ねば良いんだ。」というような形で、自責を後ろ盾にして一切反省しないということがあるのです。このパターンの人のほうが、精神状態が重篤のような気がしないでもないですが、これもこれで自責と反省を混同させてしまっていることによる弊害であることが否定できず、かなり大変です。

 

 

    まとめ

 冒頭の「あなたは、反省することが好きですか?」という質問をもし僕が受けるとすると、自信をもってYESと答えます。

 僕は、反省することが大好きです。一番効率よく、人間が成長できる術だということを知っているからです。ただしその代わり、絶対に自分のことを責めません。(ちょっと盛りましたね。突発性の高いことが起き、十分に対応できなかったときなんかは、責めてしまうことがあるかもしれません。)

 日常の人間関係のもつれ、失敗などで反省はすぐしますが、そこで自分を責めようという心の動きは一切働かないです。自責は、百害あって一利なしであるということを知っているからです。

 この区別ができているからなのかどうかわかりませんが、僕自身あまりストレスを感じない性格であり、生きていて楽しいです。

 

   なんだかメンタルに不調を感じているなと感じることが多い人というのは、これに該当する可能性がありますので、是非疑ってみると良いのではないでしょうか。

 

 

  拙いブログではありましたが、ここまで御覧いただきありがとうございました(^O^)/

 

 

 

 

 

阪神タイガースの岩田稔投手の引退で感動の涙!しかし一方で思うこと

 昨日(2021年10月1日)、阪神タイガースの岩田稔投手が引退会見を行い、注目が集まりました。

 僕も釘付けでyoutubeを見ていたのですが、感極まるものがあり、涙をこらえることができませんでした。

 

 

  ちなみにここで僕が見ていたyoutubeの動画を掲載します。

 

 

youtu.be

                     【虎バンチャンネルより引用】

 

 毎年のように引退会見を見ており、涙することも多いのですが、その中でもなかなか胸を強く打つものがあり、泣ける会見だったなあと思っています。

 ここで、そこまで詳しく知らないよという方に、簡単な岩田投手のプロフィールについて紹介した後に、会見に対する世間の反応を見ていて思ったことを記していきたいと思います。

 

 阪神・岩田稔(みのる)投手の経歴や人柄

 岩田投手は2005年にプロ入りし、以降16年間阪神一筋で戦ってきた選手です。誰もが、プロになってから苦しんで成長していく者だと思いますが、この岩田選手はプロ入りするまでの過程も、一筋縄ではいかなかったようです。

 高校生のとき、風邪によるウイルス感染により、1型の糖尿病を発症してしまい、(ちなみにですが、糖尿病患者の9割以上が2型と言われており、1型の人は自分でインスリンを全く作ることができないため、毎日数回の注射を打つことを怠ることが決して許されない。)社会人チームの内定が白紙になってしまったそうです。苦しみながらも大学に進学し、2005年に阪神のスカウトに目がとまり、自由枠として阪神に何とか入団できたというような感じでした。

 プロになってからも、1型糖尿病患者の子ども達との交流を積極的に持とうとするような献身的な姿勢と、少年のように明るい笑顔などで、非常に多くの人から愛されている選手だなあと思って見ていました。引退会見で、涙ながらに答えていましたが、最終的に記者の人まで泣いてしまう始末に。私も思わずもらい泣きしてしまいました。

 引退会見で、最も印象に残っている試合は何かと聞かれ、「2009年9月9日の中日戦です。この日は最初の娘が生まれた日でした。娘がくれた完封勝利だと思っています。」と涙ながらに答えていました。

 奥さんへの愛情も涙ながらに語っており、家族のことをとても大切にできる愛情深い人柄であるということがわかりやすく伝わりました。 

 

 感動した一方で僕が思うこと

 

 非常に感動しましたし、とても泣きました。

 しかし一方で、youtubeのコメントや、Twitterのリプライなどを見ていると、「本当に世間の考えはこれがふさわしいのだろうか?」というような疑問を感じてしまいました。

 もちろん、1型糖尿病を乗り越えて、プロ野球の第一線で戦ってきたことは大いに素晴らしいことですし、多くの患者が勇気づけられ、前向きに頑張ろうと思うことができました。そのような事実は称賛に値するものであり、素晴らしいという他ないです。これは間違いありません。

 しかし、一方でこのように思う側面もありました。

 なんでも、「病気をひっくり返して頑張っているんだ。すごい!」ということに帰結させて見てしまうことが、逆に本人を追い詰めることになるのではないかということです。

 例えばの話ですが、練習を一日も欠かさずに頑張っているとします。するとそれを見たファンが、「病気と闘って頑張っているなんてすごい!」と言うかもしれません。間違ったことではないのですが、「練習を頑張っている」というのは、彼のタフな精神力、信念、体力があってのものなのです。病気と戦うことができるということだけが、彼の良さではないのです。ですから僕は、もっとその個人の良い所に目を向けて、声掛けをしても良いのではないかと思うのです。

 

 称賛の声をあげて、本人の力に変えたいと思う人にとってみても、本人にそのように思われているのだとしたら不本意ではないでしょうか?ですのでそこは是非、改善した方が良いのではないかと思います。

 

 最後に

 

 最後に後輩の秋山投手が、岩田投手に向かって感謝の言葉と共に花束を添える時間がありました。秋山投手はその際、糖尿病のことをもちろん知っているでしょうが、そのことについては言及しませんでした。野球に取り組む姿勢、彼の人柄などについて触れることに終始していました。

 恐らく、私が言ったような「糖尿病の選手」というようなラベル貼りが、例え「彼は頑張っている」というような上向きなものであっても負担になりかねないというようなことをわかっているから、あえて触れなかったのではないかと思います。

 なんだかそのような秋山選手に、僕は好感を持ちました。

 阪神は約20試合を残し、首位とのゲーム差1.0ゲーム差で優勝争い真っ只中!是非、岩田選手からもらったエネルギーを受け持ち、16年ぶりのリーグ優勝に向け、頑張ってもらいたいですね。

 

 

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完璧主義でストレスを溜めてない?減点法より加点法を意識すると生きやすくなりますよ!

 

 皆さんの中にも、完璧主義でストレスを溜めて生きている人がいるのではないでしょうか。

 現代人の、生きずらさを招いている典型的な要因といっても過言ではないのではないかと思います。

 

 今日はその完璧主義の真髄に迫るべく、私なりに完璧主義からの呪縛を打破することにふさわしいのではないかという方法について、記事にしていきたいと思います。

 

 

 減点法の人の考え方とは?

 完璧主義の要因として考えられる「減点法」の考え方ですが、減点法の考え方を採用している人は、まず最初に100点を設定しておきます。そして、自分がまずいと認識したことがあると、点数を引いていきます。

 

 ・寝坊した

 ・電車に乗り遅れた

 ・飲み物をこぼした

 ・仕事でミスをした

 ・誰かに怒られた

 

 これらの考え方によって、最終的な評価が決まってきます。100点以外は当然減点するような出来事が起こってしまったということになります。減点法を採用していると、「減点される要素を日常から減らすこと」に目的が転じていってしまうリスクがあります。そのため、自分でコントロールできる範囲内のことでしたらまだ良いのですが、他人が絡むような自分の裁量を超えたケースで困ったことを対処するうえで不利になると思います。仮にその場でうまく対処できたとしても、不安や恐怖で、少しでも自分の足りていない要素に目がついてしまった場合、減点対象となってしまうため、自分を責めるのではないでしょうか。

 

 

 加点法の人の考え方とは?

 加点法は私も採用しているのですが、これを採用している場合、「絶対にやってはいけないことをしなかった」という水準を60点と設定します。(ちなみになぜ60点に設定したかというと、成績こそ良くないが、大学の単位がとれるギリギリの点数が60点だからです。(笑))

 絶対にやってはいけないことは、実はそう多くありません。「他人の健康(メンタルも含む)、安全に悪影響を与えること」「個人のプライバシーをずさんに扱うこと」「その他、嫌がることをしないこと」でしょうか。就労であれば、独自の規定や方針があるでしょうからそれらが加わることと思いますが、それをやらなければ60点です。そこから+αで点数を加算していきます。

 

 ・人の都合を考えて動くことができた

 ・優しい言葉をかけることができた

 ・心の余裕をもって接することができた

 ・以前に比べて効率的に物事を進めることができた

 ・頭を使い、考えて動くことができた

 ・今日も一日元気に過ごすことができた

 

 というようなことが+αに該当するようなものでしょうか。これがあると、点数を加算します。

 

 では加点法に転じるには?

 「絶対にやってはいけないことをしなければ、あとは自由だ」とでも考えておくといいかもしれません。そうすると、自分の強みや能力によってできたことが+αであるという考えになりますので、自然といいほうに目がいくようになると思います。

 もしそれ以外のことで他人から叱責されたり、チクチク何か言われたりしても、「単に自分の価値観を押し付けてるだけなんだ」とでも思ってしまえば大丈夫です。 

 相手の主観や価値観の押し付けに対し、自分を責める必要など一切ないのです。

 

  繰り返しになりますが、「絶対にやってはいけないこと以外」は、人に迷惑をかけさえしなければ、極論全て自由なのです。

 補足

 最終的に何点をとれたかなど、大した問題ではありません。大事なのは、「いかに+要素からの情報に対し、反応できているかです。」

 減点法ですと、自然にネガティブな情報にアクセスしてしまうようになっているんですよね。そのような仕組みですと、不必要なところで自分を責めてしまう自責癖のようなものがついてしまうかもしれません。

 自分を責めてしまうだけなら良いのですが、他人に求めすぎてしまい、人間関係の悪化を招くリスクまであるのではないかと思います。

 

 是非、自他共に幸せに生きていくための思考法の1つとして、参考にしていただけたら非常に嬉しいなと思います。

 

 拙いブログではありましたが、ここまでご覧いただきありがとうございました(^^)/