福祉てちてち

心理系、福祉系の話題が多いです。少しでも皆様に役立つ情報を発信できればと思います。

怒られるのが怖い!そんな時の対処法は?

 

 皆さんは、人から怒られるということに対して怖いと思いますか?

 多くの人が怖いと思うのではないかと思います。「怒る」という感情は、他人のメンタルを揺さぶる非常に大きな要因となり得る感情であり、極力怒られたくないと思っている人が多いのではないかと思います。

  僕も、当然怒られたくはありません。誰からに対してであれ、怒られてしまったら嫌な気持ちにはなります。しかし、それによって物凄く落ち込んでしまうというようなことはあまりないかもしれません。これは、僕なりの考え方によって自分を守ることが上手くできているからなのかもしれません。

 

 今日は「怒られる」という状況に直面した時、どのように考えて対処いけば良いのかと言うことについて、記事にしていきたいと思っています。怒られて傷心しすぎてしまっている人の光に少しでもなれば幸いです。

 

  まず、本題に入る前に前置きをします。怒りという感情は、第2感情と言われています。これはつまり、怒りという感情が第一に出ているというわけではなく、何らかのネガティブな感情が引き金となって怒りが表出するということです。

怒りの直接的なトリガーとしては、「不安」「恐怖」「焦り」のようなものでしょうか。

 このことを踏まえた上で、本題に移りましょう。

 

 

 

 

  怒る人は自分に自信がない

   すぐ怒る人というのは、決まって自分に自信がありません。自分の能力に自信がないわけですが、その中でもとりわけ自信がないのが対応力や適応力、精神力でしょう。多くの処理に追われていて非常に忙しい時、その人に辛いことがあった時、新たな環境で新たなことをしなければならない時などにすぐイライラし、抑えられないという人が多くいます。残念ながら、立場の弱い人に向かって執拗に怒ってしまうようなずるい人もこの世の中にはいますよね。

    自信の無さが、第一感情である「不安」「恐怖」「焦り」をより強く引き立ててしまい、怒りの感情を表出させやすくなってしまいます。

   

 自信が無いがために不安や焦りの感情を抱きやすい。そしてそれを自分で処理する力量がないから怒りを他人にぶつけてしまいやすい。とこんな所でしょうか。

 そうです。もうお分かりですね。すぐ怒る人は、決まって弱い人間なのですよ。

 

 怒る人に恐怖を抱くが、恐怖ほど強い拒絶はない

   例えば、「○○さんってこういうところが嫌だな。」と思ったとします。この「嫌悪」を他人に対して抱くことは、誰にでもあるんじゃないかと思います。仲の良い人にだって、ときには抱くのではないでしょうか。

 しかし、〇〇さんにも良いところもあると思います。仮に嫌悪感が強い相手であっても、どうしても関わらなくてはならないという場合、その人の良いところを探そうとできるかもしれませんね。そのほうが、自分としても楽な場合もありますしね。そうやって関わっていくうちに、関係性が良好に転じる余地もあると思います。

 

 では「嫌悪」ではなく「恐怖」を抱いている相手だったらどうでしょうか。

 もし恐怖を抱いている相手ならば、第一に考えるのは「いかにその人と関わらないようにできるか」ということなのではないでしょうか。

 この思想こそが、拒絶そのものだと思います。この拒絶は、その人のことを知ろう、その人の良いところを知ろうという意識がないどころか、その人といかに関わらないかという意識で脳を埋め尽くしてしまいますので、拒絶の中でもかなり強いものだと思います。

 また拒絶していれば当然、その人のことを知れる機会も制限されてしまうためその人の良いところや優れている部分を知る機会が少なくなり、結果的に拒絶の状態が解消されることが難しくなってしまいます。

 

 怒る人は自分で自分を追い込んでいる

 上記のように書きましたが、厳密には「他人が自分を追い込む状況を自分で作っている」ということだと思います。こう考えて問題ないと思います。

 前項によって、「恐怖を与えて拒絶の状態を自分で作っている」と記しましたが、このような他人からの拒絶の状態を作ることで、徐々に周りに人がいなくなっていきます。そして結果的に自分がさみしく辛い思いをすることになります。

 

  あなたが表面上普通にふるまっていたとしても、必ずどこかで人を怒って恐怖を与える立場の人は他者からの拒絶に気が付き、苦しい思いをすることになります。これは間違いありません。

 ですので、もし激怒している人と関わるような機会があったり、直接激怒されるようなことがあれば「あ、この人はこれで今自分を追い込んでしまっているんだな。」と考えてしまって問題ないと思います。

 

 最後に

 近年、日本ではパワハラが問題になっていますよね。実際、上司に怒られたり、取引先の人に怒られたりすることで精神的に追い込まれてしまい、辛い思いをして仕事を続けられない状態になってしまう人が後を絶ちません。 そこまではいかなくても、辛い思いをしてしまう人が多いのは事実だと思います。

 そんな状態になった時、この記事を思い出して「この人も結局自分追い込んでるんだなあ。」「自分に自信がないのかもしれないなあ。」などと考えていただけたら幸いです。(このような思想を用いることの最大の意義は、焦点がダメな自分ではなく怒る張本人にあてられることで、心の負担が軽減できるようになることです。)

 

 とはいえ、まずいことはまずいと思うので、そこを受け入れることは必要だと思います。人から指摘されたり、また時には強い口調で言われることがあるかもしれませんが、受け入れて変えていくことが求められる場面も多々あります。反省しなきゃいけないけど、自分を追い込みすぎてもいけない。そのバランスをとる必要がありますね。

 

 ここで注意!反省と自分を責めることは違いますよ!

 これは別記事で解説していますので、一緒にしちゃいがちな人は是非こちらも参考にしてみてください。

 あなたのメンタルが不調なのはもしかして、「自責」と「反省」を混同しているからなのでは? - てちてちブログ (techitechi1515blog.info)

 

 今は辛いかもしれないけれど、自分を責めない程度に悪い部分を解消し、成長につなげることができたら、あとからあの時間も良かったのかもしれないなあなんて俯瞰できるようになるかもしれませんよね。

 怒られて毎日が辛い!と思われている方の心の負担が少しでも軽減できるようになることを祈っています。

 

 拙いブログではありましたが、ここまでご覧いただきありがとうございました(^^)/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「子どもが好き」と言っている人、ちょっと待って!

 

 このブログをご覧の方の中にも、「私、子ども好きなんだよね~」などと、発言している人を、何度も聞いたことがあるという方が多いのではないでしょうか。また、もしかしたらご自身がそのような言葉を使われるという方もいるかもしれません。

 

 実際、僕も児童養護施設で社会福祉実習に挑むまでは、そのように考えていました。

 しかし、子どもと関わる時間が長くなるほど、このような概念に違和感を抱くようになりました。今日は、どのようなこと部分で違和感を抱くのかということ、またどのような障害が生じるのかということなども合わせて記事にしていきたいと思います。

 

 

 何故「子どもが好き」というフレーズに違和感を抱くのか

 例えばの話です。もし、「俺って、障害者好きなんだよね~」と言っている人を目にしたら、どのように感じるでしょうか。上手く言えませんが、なんとなく変な感じがしないでしょうか?

 僕が考えるに、この違和感は障害者を一括りにし、身勝手な役割を委託している感が否めないからだと思います。例えば、「優しい」「従順」「親しみやすい」と挙げたとします。するとどうでしょうか。「うーん。一概にそうは言えないんじゃないかなあ?障害者にだって色んな人がいるだろうに。」と思いませんか?

 

  僕は、違和感を抱く人が少ないという相違点を除き、子どもにおいても同様のことが言えるのではないかと考えます。

 恐らく子どもが好き、嫌いという尺度で子どもを見ているのは、子どもを想像した時に浮かんでくる「純粋」「生意気」「素直」というような(例えばですが。)イメージを、そのまま子どもと接する中で子どもに投影させているんじゃないかと思います。 何故か相手が子どもとなると、「子どもだって色んな人がいるだろうに。」とはならないんですよね。なんだかとても不思議だなあって思います。

 

 

 「好き」「嫌い」という感情を持ち出すと、子どもと関わる上でどのような弊害が出てくるのか

 では子どものことが「好き」「嫌い」というようなスタンスで子どもと関わると、どのような障害がでるのでしょうか?

 「嫌い」という感情をもって子どもと接することで、ネガティブなことが起こりやすそうだなというのは容易に想像がつきますよね。

 しかし意外かもしれませんが、実は「好き」という感情を子どもにもって接するというのも、弊害が起こるのです。

 子どもが好き!ということにも、何らかの理由があります。「可愛い!」「純粋!」「健気!」とか、、、。一見、何の変哲もないように思うのですが、子どもに対して大人側の期待を押し付けることになりかねないというリスクがそこにはあると思うのです。

 

 もし、可愛いから子どもが好き!と言っている人の前に、可愛い!という感情が抱けない子どもが目の前に現れたらどうでしょうか。

 もし、純粋だから子どもが好き!と言っている人の前に、純粋!という感情が抱けない子どもが目の前に現れたらどうでしょうか。

 

 きっと、あまり良い感情を抱けないのではないかと思います。「子どもなのに、あの子は可愛くないわねえ。」なんて、大人が言っているのを聞いたことがある人もいるのではないでしょうか?

 しかし、僕から言わせてみると、そのような感情は大人のエゴなのです。何故可愛くなくてはいけないのか。何故純粋じゃなくてはいけないのか。という話になります。

 

 一生懸命、大人が勝手に与えた環境で、毎日頑張って過ごしている。それだけで称賛に値するんじゃないかなあと僕は思います。

 

 

 子ども達に対して好意的な感情を抱くことが悪いとは決して言いません。

 しかし、子どもに対しての期待値が高まるばかりに、大人側が抱く一方的な期待を子どもに押し付け子どもが窮屈な思いをしてしまうことは、避けるべく、留意すべき点だと思います。

 

 まとめ

 

 1人1人によって、性格は違いまよね。それは子どもに限らず、障害者であれ、高齢者であれ、外国人であれ、全て同様です。

 好き嫌い以外でも、「子どもは○○」という一括りにするような見方は、かなり危険だと思います。

 仮に子ども3人と関わったとして、3人とも純粋だなあと思ったら、「子どもは純粋だなあ。」ではなく、「A君は純粋、B君も純粋、Cちゃんも純粋なんだなあ。」という見方をするのが良いのではないかと思っています。

 それが、子どもという小集団に過度な期待を押し付けず、個を尊重するということに繋がってくると思います。

 

 

 子どもを好きになるためにはどうしたらと考える方も多いのではないかと思います。  

 そのように考えるのは、子どもを好きになれたら、子どもといい関係が構築できるし、自分としても子どもと関わる日々がとても楽しくなると思っているのかもしれません。

 

 子どもに好意的に関わることはもちろん悪い事ではありません。しかし、子どもを好きになるということよりも、子どもを一個人として尊重することのほうがよっぽど大切だと思っています。

 少しでも、皆さんにとって子どもと関わる時間が充実したものになれば良いなあと切に願っています。

 

 

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あなたのメンタルが不調なのはもしかして、「自責」と「反省」を混同しているからなのでは?

 突然ですが、これをご覧になっている方に質問です。

 

 あなたは、反省することが好きですか?

 

 どちらでもないと答えられる方もいらっしゃるかもしれませんが、どっちかといえばNOかなと思う人が多いのではないでしょうか?

 ここですぐにNO!と自信をもって答える人は、「自責」と「反省」を混同させてしまっている可能性が高いです。反省することが嫌いであるという理由として、自分を責めてしまい、つらい気持ちになりたくないからということが大部分を占めているのではないかと思います。

 結論から言いますと、この「自責」と「反省」の混同は、自分のメンタルを良好に保つ上では最悪だと思います。

 

 今日は、この「自責」と「反省」を混同させてしまう問題点とその打開策について記事にしていきたいと思います。

 

 

 

 そもそも、自責と反省の違いは?

 まず、具体的に自責と反省がどのように異なるのかということを、明らかにしていきたいと思います。

 「自責」と「反省」で最も大きく異なるのは、今後にプラスの側面をもたらすのかどうかということです。

 「反省」は、自分の行動について振り返りをしていくことで、今後もっと良くしていくためにはどうしたらいいのかということについて明らかにすることになりますので、確実に自分の成長につながります。ネガティブなことがあれば、「同じことを繰り返さないようにしよう。」と考えられるのはもちろんのこと、ネガティブなことがなかったとしても、「どのようにしたらより良くなるのだろうか。」と考えることができ、これは非常に有益なものとなります。

 しかし、「自責」は違います。自責はとにかく自分のことを責め、ネガティブな気持ちを増強させる行為です。「自分になど価値はないのだ。」「自分なんてダメだ。」と唱えてしまい、発生した物事に対して反応してしまうものです。この自責は、未来に向かう働きかけでもなければ、成長した自分に対しての働きかけでもないため、有益となることはありません。それどころか、何よりも自分が傷つきます。

 せっかく傷つくのなら、何か得られるものが欲しいなと考える私にとっては、なかなか辛そうな状態だなと達観してしまいます。

 

 自責と反省を混同させる問題点

 自責は悪い側面しかもたないことに対し、反省は未来に向けて非常にいい側面ももつと前項で説明させていただきました。では、もし失敗が生じたときや、自分が責められることがあったときなどの時において、自責と反省を混同させてしまうとどのような問題が生じるのでしょうか。

 具体例を挙げて説明させていただけたらと思っています。

 成長しにくくなる

 自分を責めていい気持ちになる人などいません。当然、私も嫌なものです。

 自分を責めることと反省することをほぼ同義と考えている人は、反省することに対しても嫌悪感や恐怖心を感じるため、避けてしまうのです。

 その結果、自分を顧みようとする習慣が少なくなるため、自己成長を見込むことがそれだけ難しくなってしまうのです。

 さすがに同じ失敗を繰り返していては、周りからの信頼をなくしますのでそのような別の圧力によって是正できるでしょうが、人から指摘されたことについて素直に受け入れられなかったり、低い位置で妥協してしまい、向上心が見られなかったりするような特徴が否定できないため、同じ経験をしても、成長度合いがあまり高くない可能性があります。

 

 

 完璧主義になりやすくなる

 完璧主義になりやすくなります。これも前例と同様、反省に対する恐怖から、「反省しなければならない状況」というのを極力減らさなければならないと考えてしまいます。

   その結果として、完璧主義になりやすくなってしまうのです。完璧じゃなければダメ。もし完璧にできなければ、自分を責めてしまう。というようマインドが働いています。仮に完璧にできなかった場合も、この人の見立て通り自責が働くのです。つまり、予期不安で完璧主義になり、実際に直面して自責するという二重でマイナスなことが起こっているのです。

 

  ちなみにですが、完璧主義を打破する方法するための考え方については、先日別記事について書かせていただいています。

 興味を持たれた方がいらっしゃったら、ぜひご参照ください。

 

www.techitechi1515blog.info

 

 

 

    気付いたら問題が山積みになる

  反省することを恐れるばかりか、自分にネガティブな感情が巻き起こっているという事実にも直視しずらくなってしまう可能性があります。

 何か問題が起こっているのにも関わらず、反省することが億劫だからといって放置してしまうのです。その結果、小さな問題がどんどん蓄積していき、やがて支えきれなくなってパンクしてしまいます。

 「〇〇さんとの関わり方がわからない」「クレームに対しての対処がわからない」「初対面の人とどのように会話を続けたらいいかわからない」「△△さんにどう思われているのか不安だ」などですかね。なんとなく思いついたありがちな不安を羅列してみましたが、実際にはもっと様々な問題が個々に存在していることと思います。

 

 自責と反省の混同そのものがメンタルを追い込んでしまうだけでなく、問題解決能力の低下を招き、間接的にそれがメンタルを追い込むというダブルパンチの構図なのがおわかりいただけるのではないかと思います。

 

 

 人間関係の悪化を招きやすい

 反省しずらいので、非を素直に認められず、もめごとに発展したり、葛藤関係をつくりやすかったりするような人がいることと思います。

   しかしそれ以外にも、「自分のことを責めているのだから、反省しなくて良いでしょ?」という人が時々います。

   「はいはい、私が悪いのね。」「私のせいにしてれば良いじゃないの。」「良いよ、私が悪いから私が死ねば良いんだ。」というような形で、自責を後ろ盾にして一切反省しないということがあるのです。このパターンの人のほうが、精神状態が重篤のような気がしないでもないですが、これもこれで自責と反省を混同させてしまっていることによる弊害であるといえるためかなり厄介です。

 

    どちらのパターンも反省できないという点で共通しており、対人関係で苦労するでしょう。そこは正直、本人が気付いて本人の意志の元で改善する以外に策はないと思います。

 

    まとめ

 冒頭の「あなたは、反省することが好きですか?」という質問をもし僕が受けるとすると、自信をもってYESと答えます。

 僕は、反省することが大好きです。一番効率よく、人間が成長できる術だということを知っているからです。ただしその代わり、絶対に自分のことを責めません。(ちょっと盛りましたね。あまりにも突発性の高いことが起き、十分に対応できなければ責めてしまうことがあるかもしれません。)

 日常の人間関係のもつれ、失敗などで反省はすぐしますが、そこで自分を責めようという心の動きは一切働かないです。自責は、百害あって一利なしであるということを知っているからです。

 この区別ができているからなのかどうかわかりませんが、僕自身あまりストレスを感じない性格であり、生きていて楽しいです。

 

   なんだかメンタルに不調を感じているなと感じることが多い人というのは、これに該当する可能性がありますので、是非疑ってみると良いのではないでしょうか。

 

 

  拙いブログではありましたが、ここまで御覧いただきありがとうございました(^O^)/

 

 

 

 

 

阪神タイガースの岩田稔投手の引退で感動の涙!しかし一方で思うこと

 昨日(2021年10月1日)、阪神タイガースの岩田稔投手が引退会見を行い、注目が集まりました。

 僕も釘付けでyoutubeを見ていたのですが、感極まるものがあり、涙をこらえることができませんでした。

 

 

  ちなみにここで僕が見ていたyoutubeの動画を掲載します。

 

 

youtu.be

                     【虎バンチャンネルより引用】

 

 毎年のように引退会見を見ており、涙することも多いのですが、その中でもなかなか胸を強く打つものがあり、泣ける会見だったなあと思っています。

 ここで、そこまで詳しく知らないよという方に、簡単な岩田投手のプロフィールについて紹介した後に、会見に対する世間の反応を見ていて思ったことを記していきたいと思います。

 

 阪神・岩田稔(みのる)投手の経歴や人柄

 岩田投手は2005年にプロ入りし、以降16年間阪神一筋で戦ってきた選手です。誰もが、プロになってから苦しんで成長していく者だと思いますが、この岩田選手はプロ入りするまでの過程も、一筋縄ではいかなかったようです。

 高校生のとき、風邪によるウイルス感染により、1型の糖尿病を発症してしまい、(ちなみにですが、糖尿病患者の9割以上が2型と言われており、1型の人は自分でインスリンを全く作ることができないため、毎日数回の注射を打つことを怠ることが決して許されない。)社会人チームの内定が白紙になってしまったそうです。苦しみながらも大学に進学し、2005年に阪神のスカウトに目がとまり、自由枠として阪神に何とか入団できたというような感じでした。

 プロになってからも、1型糖尿病患者の子ども達との交流を積極的に持とうとするような献身的な姿勢と、少年のように明るい笑顔などで、非常に多くの人から愛されている選手だなあと思って見ていました。引退会見で、涙ながらに答えていましたが、最終的に記者の人まで泣いてしまう始末に。私も思わずもらい泣きしてしまいました。

 引退会見で、最も印象に残っている試合は何かと聞かれ、「2009年9月9日の中日戦です。この日は最初の娘が生まれた日でした。娘がくれた完封勝利だと思っています。」と涙ながらに答えていました。

 奥さんへの愛情も涙ながらに語っており、家族のことをとても大切にできる愛情深い人柄であるということがわかりやすく伝わりました。 

 

 感動した一方で僕が思うこと

 

 非常に感動しましたし、とても泣きました。

 しかし一方で、youtubeのコメントや、Twitterのリプライなどを見ていると、「本当に世間の考えはこれがふさわしいのだろうか?」というような疑問を感じてしまいました。

 もちろん、1型糖尿病を乗り越えて、プロ野球の第一線で戦ってきたことは大いに素晴らしいことですし、多くの患者が勇気づけられ、前向きに頑張ろうと思うことができました。そのような事実は称賛に値するものであり、素晴らしいという他ないです。これは間違いありません。

 しかし、一方でこのように思う側面もありました。

 なんでも、「病気をひっくり返して頑張っているんだ。すごい!」ということに帰結させて見てしまうことが、逆に本人を追い詰めることになるのではないかということです。

 例えばの話ですが、練習を一日も欠かさずに頑張っているとします。するとそれを見たファンが、「病気と闘って頑張っているなんてすごい!」と言うかもしれません。間違ったことではないのですが、「練習を頑張っている」というのは、彼のタフな精神力、信念、体力があってのものなのです。病気と戦うことができるということだけが、彼の良さではないのです。ですから僕は、もっとその個人の良い所に目を向けて、声掛けをしても良いのではないかと思うのです。

 

 称賛の声をあげて、本人の力に変えたいと思う人にとってみても、本人にそのように思われているのだとしたら不本意ではないでしょうか?ですのでそこは是非、改善した方が良いのではないかと思います。

 

 最後に

 

 最後に後輩の秋山投手が、岩田投手に向かって感謝の言葉と共に花束を添える時間がありました。秋山投手はその際、糖尿病のことをもちろん知っているでしょうが、そのことについては言及しませんでした。野球に取り組む姿勢、彼の人柄などについて触れることに終始していました。

 恐らく、私が言ったような「糖尿病の選手」というようなラベル貼りが、例え「彼は頑張っている」というような上向きなものであっても負担になりかねないというようなことをわかっているから、あえて触れなかったのではないかと思います。

 なんだかそのような秋山選手に、僕は好感を持ちました。

 阪神は約20試合を残し、首位とのゲーム差1.0ゲーム差で優勝争い真っ只中!是非、岩田選手からもらったエネルギーを受け持ち、16年ぶりのリーグ優勝に向け、頑張ってもらいたいですね。

 

 

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完璧主義でストレスを溜めてない?減点法より加点法を意識すると生きやすくなりますよ!

 

 皆さんの中にも、完璧主義でストレスを溜めて生きている人がいるのではないでしょうか。

 現代人の、生きずらさを招いている典型的な要因といっても過言ではないのではないかと思います。

 

 今日はその完璧主義の真髄に迫るべく、私なりに完璧主義からの呪縛を打破することにふさわしいのではないかという方法について、記事にしていきたいと思います。

 

 

 減点法の人の考え方とは?

 完璧主義の要因として考えられる「減点法」の考え方ですが、減点法の考え方を採用している人は、まず最初に100点を設定しておきます。そして、自分がまずいと認識したことがあると、点数を引いていきます。

 

 ・寝坊した

 ・電車に乗り遅れた

 ・飲み物をこぼした

 ・仕事でミスをした

 ・誰かに怒られた

 

 これらの考え方によって、最終的な評価が決まってきます。100点以外は当然減点するような出来事が起こってしまったということになります。減点法を採用していると、「減点される要素を日常から減らすこと」に目的が転じていってしまうリスクがあります。そのため、自分でコントロールできる範囲内のことでしたらまだ良いのですが、他人が絡むような自分の裁量を超えたケースで困ったことを対処するうえで不利になると思います。仮にその場でうまく対処できたとしても、不安や恐怖で、少しでも自分の足りていない要素に目がついてしまった場合、減点対象となってしまうため、自分を責めるのではないでしょうか。

 

 

 加点法の人の考え方とは?

 加点法は私も採用しているのですが、これを採用している場合、「絶対にやってはいけないことをしなかった」という水準を60点と設定します。(ちなみになぜ60点に設定したかというと、成績こそ良くないが、大学の単位がとれるギリギリの点数が60点だからです。(笑))

 絶対にやってはいけないことは、実はそう多くありません。「他人の健康(メンタルも含む)、安全に悪影響を与えること」「個人のプライバシーをずさんに扱うこと」「その他、嫌がることをしないこと」でしょうか。就労であれば、独自の規定や方針があるでしょうからそれらが加わることと思いますが、それをやらなければ60点です。そこから+αで点数を加算していきます。

 

 ・人の都合を考えて動くことができた

 ・優しい言葉をかけることができた

 ・心の余裕をもって接することができた

 ・以前に比べて効率的に物事を進めることができた

 ・頭を使い、考えて動くことができた

 ・今日も一日元気に過ごすことができた

 

 というようなことが+αに該当するようなものでしょうか。これがあると、点数を加算します。

 

 では加点法に転じるには?

 「絶対にやってはいけないことをしなければ、あとは自由だ」とでも考えておくといいかもしれません。そうすると、自分の強みや能力によってできたことが+αであるという考えになりますので、自然といいほうに目がいくようになると思います。

 もしそれ以外のことで他人から叱責されたり、チクチク何か言われたりしても、「単に自分の価値観を押し付けてるだけなんだ」とでも思ってしまえば大丈夫です。 

 相手の主観や価値観の押し付けに対し、自分を責める必要など一切ないのです。

 

  繰り返しになりますが、「絶対にやってはいけないこと以外」は、人に迷惑をかけさえしなければ、極論全て自由なのです。

 補足

 最終的に何点をとれたかなど、大した問題ではありません。大事なのは、「いかに+要素からの情報に対し、反応できているかです。」

 減点法ですと、自然にネガティブな情報にアクセスしてしまうようになっているんですよね。そのような仕組みですと、不必要なところで自分を責めてしまう自責癖のようなものがついてしまうかもしれません。

 自分を責めてしまうだけなら良いのですが、他人に求めすぎてしまい、人間関係の悪化を招くリスクまであるのではないかと思います。

 

 是非、自他共に幸せに生きていくための思考法の1つとして、参考にしていただけたら非常に嬉しいなと思います。

 

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人から嫌われるのが怖い!人から嫌われたくない!という人、集まれ~!

 

 皆さんは、今までの人生の中で、「あの人とそりが合わない」「あの人とだけはうまくいかなかった」など、色々な葛藤関係を他人と築いてきたという人が多いのではないでしょうか?

 中には、人から嫌われるたびに傷ついてしまう、落ち込んでしまう、という人もきっと少なくないのではないかと思います。確かに、誰しも人から嫌われてしまったら良い思いはしませんよね。僕も決して、良い思いをしているとは言えません。

 しかしながら、落ち込みすぎてしまったり、傷つきすぎてしまったりする人には、ある共通する「認知の癖」のようなものがあるような気がしています。

 この「認知の癖」こそが、人から嫌われてしまったときに自分の心を苦しめているのではないかと思います。本記事では、その癖にアプローチして、少しでも人から嫌われてしまったときの皆さんのダメージを軽減させることができたら良いなと思います。

 

 

 人から嫌われた時、こう思っていませんか?

 人から嫌われるようなことをした自分が悪い

 これが今回の記事で、私が皆さんに最も伝えたい項目です。これだけでも、どなたかに刺さっていただければ充分嬉しいです。

 

 さて、人から嫌われてしまった時、「自分が何か悪い事したんじゃないかな?」と考える人が多いのではないかと思います。それは人として正しい事ですし、何ら問題もないです。この考えをすることで、自らの行動を改め成長し、周りとの良好な人間関係を築くことができるようになると思います。このように自分自身、反省しようとして問いをたてるということは、至極真っ当だと思います。

 

 しかし、問題はその次のステップです。

 考えても具体的に自分の非が思いつかなかった時、「まあ、自分が何かしてしまったんだろうな。」「自分のせいで、相手を怒らせてしまったんだなあ。」と考えていませんか?

 この考え方をしている方がいたら、今すぐやめてください。

 相手にとってもプラスにならないばかりか、このような勘違いが自分を過度に責め、結果としてしんどい思いをする時間を増やしてしまうだけだと思います。まあ正直な話、損です。

 

 このような考え方は、根本的な勘違いが発端にあるのではないかと思います。「人は、他人の非でしか人を嫌いにならない。」ということです。つまり、自分が悪いことをしたということ以外に、私を嫌いになる理由はないというような考え方です。

 この考え方が真髄にあるので、他人との葛藤から自分の具体的な非をうまく見つけることができなかった場合であっても、必要以上に自分を責めてしまうのではないかと思います。

 

 しかし人間は必ずしも、相手の非によって人を嫌いになるとは言えません。「相手に非がある」というよりも、「相手が自分にとって都合の悪い存在になった」ということが、根本的な要因となっていることがあるのです。いや、むしろその方が多いかもしれません。

 

 例えばの話です。高校生からの仲のいい親友がいたとしましょう。あなたは、年収5000万で高級住宅街に住んでおり、高級車を乗り回し、たくさんの異性とも関係をもっています。それに対し、友人は年収200万で仕事に追われる毎日で、たまの休みも家でダラダラと過ごしていたら終わってしまいます。そのような環境で、その友人と交友関係を続けていくとします。

 彼は充実した話、羨ましい話をたくさん聞かされるのではないかと思います。それを聞いて、「この人と比較して自分は充実してないなあ。」と自己嫌悪になるかもしれません。そして、そのうちその人と関わりたくなくなり、距離を置くかもしれません。

 彼も、自分も何も悪いことはしていません。しかし、彼にとって自分が都合の悪い存在となっているのです。そのため、彼は距離をおこうとするのです。

 

あなたが悪いことをしたんじゃない。相手にとってたまたま都合が悪い存在にあなた自身がなってしまったんだ。そう考えれば良いのです。

 

 人から嫌われることは悪いことだ

 

 人から嫌われてしまったら傷つきますよね。恐らくそれが悪いことだと思われるかもしれません。

 しかし、にわかには信じられないかもしれませんが、そうとは限りません。

 今までずっと仲良くすることができていたのに、途中でどこかそりが合わないような気がしてしまい結果として葛藤関係となり、仲たがいしてしまったというような経験はないでしょうか?

 その人とのことを考えるとどうでしょう。僕はそうなるくらいであれば、最初から嫌っていてほしかったと思ってしまいます。その人と楽しく過ごした過去のすべてが、あまり思い出したくないものとして残してしまうからです。

 

 自分自身を表現して、早いうちに嫌われておいたほうが良いかもしれません。そのような無駄な時間を省くことができると考えれば、効率の良い人間関係を育む上で非常に有益なのではないかと僕は思います。

 是非落ち込まず、無駄が排除できた!と喜びましょう。

 

 考察

 やはり、私は周りの人を見ていて、嫌われたことで傷つきすぎてしまう人は、自分のことを責めすぎだと思います。自分が悪いことをしたのであれば反省しなくてはならないですし、自分の非を認めることは必要です。しかし、考えても自分の悪いことが思い当たらないという人は、反省することをやめ、「あ、この人にとって自分は都合の悪い存在になってしまったんだな。仕方ない。」と早々に割り切ってしまうのが良いと思います。そうすれば、不必要に辛い時間を過ごさなくて済みます。

 自分が相手に何をしたのか。と考える癖をつけるのが良いと思います。人によっては、例えば「触るのだけは絶対やめてほしい。」「スマホ見るのだけは絶対やめてほしい。」というように、特異的にこれはやめてほしいと思う部分があるかもしれません。しかしそれを除いては、基本的に相手が「どう感じたか」よりも「自分が相手に何をしたか」を軸に考えると生きやすくなるのではないかと思います。

 

    繊細で、優しい心の持ち主のあなたに幸あれ。

 

  

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自殺のデータに物申す!経済的問題や男女関係が原因ってそれ本当?

 随分久しぶりの投稿となってしまいました。皆様は、いかがお過ごしでしょうか。

 

 さて、当人は大学で精神疾患について学習する機会が多いのですが、ある日大学の教材のとあるページで、何気なく触れたグラフに非常に大きな疑問を持ってしまいました。普段は、グラフや表を見ても、なんとなく「あ、そういうデータがあるのか~」というような受け身の姿勢が主体で、特に気に留めないことが多いのですが、今回見たものに関しては「これ本当なの?」「根拠は何?」「このデータないほうがいいんじゃない?」というような様々なマイナスの疑問が浮かんできました。

 それは「自殺の原因のデータ」というものでした。

 見る人にとっては何の変哲もない一般的なデータのようにしか思えないかもしれませんが、正直僕としては、非常に良くないデータなのではないかと思います。

 僕がそう考える理由として、信ぴょう性に欠けるという点、自殺あるいは精神障害についての社会的理解が送れるという点などが挙げられます。

 まずそのデータの概要について見ていった上で、これらについて、具体的に記していけたらと思います。

 

 

 

 自殺の原因のデータの概要について

 さて、まずは僕が述べさせていただいているデータの概要についてです。

 次の図をご覧ください。

 

 

 授業中に見たものと、全く同じ図というわけではないのですが、内容としてはほぼ同じものです。こちらは「平成25年における自殺の状況について」です。やや古いデータですが、健康問題が自殺の要因として最も多い傾向は長期的に続いています。

 その次に、経済・生活問題、家庭問題、勤務問題の順に多いのではないかと考えられています。

 やはり何度見ても異議を唱えたくなってしまいますね。笑

 今この画像を貼り、文章を打ち込みつつもそのような気分になっております。

 

 早速このデータに異議を唱えていきたいと思います。


何故僕がこのデータを良くないと考えるのか

 信憑性に欠けるという点

 何と言っても、信憑性に欠けるのではないでしょうか。経済的に困窮している人や、人間関係に苦しんでいる人は、確かに追い込まれているとは言えます。

 しかし、どうでしょうか。全くそのような原因でその人が命を自ら落としたという根拠はないのではないでしょうか。
 経済的に苦しんでいる実態があるにせよ、男女関係で苦しんでいる実態があるにせよ、一生懸命生きている人は大勢いると思います。そのような理由であの人は死を選んだというのは、あくまで第三者の推測にすぎないのです。

 

 もっと言うと、「自分で死を選ばなくてはならない」という状態は、精神的に健康であるとは当然言えません。

 極めて自殺の危険性が高かったり、人を怪我させてしまうリスクがある(自傷他外の恐れがあると言います。)場合、日本では措置入院という制度があります。精神的に危険な病であるとみなし、命を守るために、本人の意志に反して強制的に入院させるという制度です。

 そう、つまり自分の命を害する危険があるという状態そのものが、精神に重篤な疾患を患っているということになるのです。

 

 このような背景から、「いや、無理矢理データにするのであれば健康問題が100%になるんじゃないの?」と個人的には考えてしまうのです。

 

 精神疾患の社会的理解が遅れる要因になる点

 

 精神疾患について学習している身としてみると、この図は危険なにおいがします。どこに危険なにおいがするのかと言いますと、根本的な原因を知られざる状態で話が終わってしまうリスクがあるということです。

 具体的に申しますと、「あの人は男女関係で死んでしまった。」「あの人は経済的な原因で死んでしまった。」というような勘違いをされてしまうということです。

 「死を選ばなけらればならない状況に追いやられている=精神的に重篤な疾患がある」というお話は前述させていただきましたが、勘違いを助長させるようなグラフによって、このような正しい認識から遠ざかってしまうのです。

 確かに死を選んだ引き金としては、「人間関係」「経済的問題」などということはあり得ますが、根本的な要因がそれであるとは言い難いんですよね。

 

 死を考えている人がいる→重篤な精神疾患のリスクがある→専門的な支援が必要

という思考に至ってほしいところではあるのですが、そこから遠ざけてしまう恐れがあるということです。

 

 苦しむ人が増える危険性がある点

 このデータを見ることで、苦しむ人が出てくる人がいるということを、果たしてどれくらい考えて作られているんだろうという疑問が僕の中にあります。

 自殺を選んでしまった人の親族や友達は、「自分のせいでこうなってしまった。」

「自分が支えられていたら、こうはならなかったのではないか。」というような自責の念に一生苦しむことになりかねないのです。

 ただでさえ自責の念で苦しんでいるはずなのに、このあたかも正しい事実であるかのようなデータを参照することで、余計に拍車をかけてしまうことになりかねないのです。

 事実であると言い切れるなら話は別なのですが、そうとも言い切れないだけに、なんだか釈然としないなと当人は感じています。

 

 

 まとめ 

 精神疾患を患っている人は、年々増加しています。これは社会の変化がそうさせているのか、病気の人が表出してきているだけなのか、定かではありませんが、社会の在り方が問われてきていることは確かです。

 もし、周りに「死にたい。」というようなことをよく口にするという人がいたら、早急に手を打たなければなりません。

 精神科医療を利用するのもありですし、自殺相談センターにコールするのもありですし、保健所に相談するのもありです。

 「自分が支えなければならない」と考えるのではなく、「専門的な支援が必要だ」と見切りをつけ、早めに機関に繋ぐのも重要な判断だと思います。

 

 また過去の教訓から学ぶことも、同じだと個人的には思っています。「自分が支えられなかった」ではなく、「適切に専門職に繋げられなかった」と考えるべきなのです。

 もちろん自分で死を選ぶ状況を減らすことが一番ですし、最優先事項ではあります。そのためには、他者の精神疾患への理解が不可欠なのではないかと個人的には考えています。

 興味を引き付けるために過度に不安をあおったり、事実かどうか定かでないようなデータを用いるのではなく、事実に基づいた正しいデータを共有できる世の中になったらいいなと個人的には思いました。

 

 

 拙いブログではありましたが、ここまでご覧いただきありがとうございました(^^)/