メンタルてちてち

心理系、福祉系の話題が多いです。少しでも皆様に役立つ情報を発信できればと思います。

風化させてはダメ!戦後苦しんだ浮浪児の悲惨な実態

 

 

 

 「浮浪児」という言葉を聞いたことはありますか?

 戦後、親がいないなどの理由で十分な生活環境が整わなかった子ども達が、道路や地下街に放置されていたという現実があります。

 戦争が終わってもなお、今日明日生きるためにどうしたらいいか。まともに食事を与えられない中で必死に考えながら毎日を生きていた子ども達がいたという事実を知り、自分自身胸が痛くなりました。

 

 今日はその「浮浪児」と呼ばれる子ども達の当時の実態について迫り、どのような対処が必要だったのかということを考えながら記事にしていきたいと思います。

 

 

 

 浮浪児の実態

  1945年に、太平洋戦争が幕を閉じました。なんとか人々は生活苦を乗り越え、高度経済成長を遂げて国として大幅に成長していきました。ここまでは歴史の授業で習う所かと思うのですが、スポットライトの当たらない所で戦争が終わっても尚苦しみ続けていた子どもたちがいました。それが「浮浪児」と言われる子ども達です。

 養育する親が亡くなってしまった子ども達に帰る家がなく、道に放り出されていたままにされていた事実があります。

 

 当時浮浪児だった方達がインタビューに答えている動画を載せているサイトを見つけました。より分かりやすいかと思いますので、興味がある方は是非そちらをご覧ください。

 

 

 

wararchive.yahoo.co.jp

 

 

 

 

 とにかく生きるために、望んでもいない盗みを働かせたり、仲間が死んでいくのを何もせず見ていたりと、想像もできないくらい心が痛むような出来事が身近に起きていたのだということがわかります。

 

 

 ここからは、上の動画ではお話されていなかったことなのですが、政府は一応、この浮浪児への対応をしていたケースもあったという記録も残っています。

 しかしこの対応も、とてもではありませんが、適切と言えるものではありませんでした。

 

 地下通路や高架線の下などにいる子ども達を見つけたら、強制的にトラックへ乗せて孤児院などの施設に連れていったそうです。これは「狩り込み」と言われています。

 

 しかし恐ろしいことに、この狩り込みは子ども達を支援することが目的に行われていた政策ではなかったのです。

 当時は非常に頻繁に少年犯罪が起こっていたそうです。これは太平洋戦争が始まる前からのことだそうですが、その少年犯罪に手を染めてしまう割合が高かったのが浮浪児だったそうです。

 「狩り込み」は、浮浪児を支援するための政策ではなく、少年犯罪を減らすことが目的に行われていた政策だったというわけです。

 

 狩り込みによって連れていかれた施設も、十分な食料があったり普通の生活ができるような設備があったりしたわけではなかったようです。

 とりあえず連れていき、放置。脱走するもの対してはひたすらに暴力。

 といった感じのようで、結局力の強いものだけが食料を手にすることができ、力の弱い子、衰弱している子は食べ物を手にすることができず、こちらも先ほどの放置されていた浮浪児と同様に、毎日餓死する子どもがいたそうです。

 

 

 連れていかれなくても、連れていかれても地獄があったそうです。ただでさえ、支援を受けるべくしていた子ども達が、少年犯罪を起こす加害者とみなされて冷たい扱いをされていたという事実があるのです。本当に信じられませんよね。

 

 

 

 

 浮浪児とその後の政策

 このような反省を受けて、1947年に児童福祉法が制定されました。

 児童福祉法では、「全ての子どもに健全な成長発達を保障」という内容が主になっており、前年に制定された日本国憲法がモチーフになっています。

 同年に糸賀一雄によって滋賀県に戦争孤児や戦争によって障害を負ってしまった子どもなどが暮らせる「近江学園」が建設されたり、1951年にはあらたな法律である児童憲章が制定されたりと、徐々に子どもを支援する政策が充足していきました。

 児童憲章とは、「全ての児童に人権を保障する」といったことが掲げられています。また国連で可決したものであり、国境を超えて重要視されています。

 

 浮浪児が苦しんでいた現実は胸が痛みますが、その苦しみは決してその後に生まれてくる子ども達には無駄になっていなかったのではないかと思います。

 

 まとめ

  個人的な意見としては、もう少し早い段階で子どもの福祉的な政策を充足させるべきだったのではないかとやはり考えてしまいます。

 児童福祉の根源は、1918年の米騒動の時であったと言われています。生活苦に見かねた保健所や国が連携して児童相談所を全国に設置したそうです。

  にも関わらずそれから30年近くたった戦後に子どもの支援が全くと言って良いほどいきわたっていなかったというのは正直どうなんだろうかと思います(;^ω^)

 

 僕の考えなのですが、もちろんこれは当時の大人の責任です。それが大前提ですが、大人達も自分達が毎日生きることに必死だった戦争の名残があったのではないかと思ってます。子どもを排除するつもりもなかったのかもしれませが、結果的に自分の力で生きていけない子ども達が放置されてしまったということだったのかなと考えています。

 

 このようなことは決してあってはならず、風化させてはいけません。当時「浮浪児」と言われていた戦争孤児だった人達も、高齢化が進んでいます。(2020年現在で考えると、70代後半~80代後半くらいですね。) 当時の生の声を伝えられる人というのもどんどん少なくなっていってしまうかもしれませんが、かなり重い事実があったということで今後も受け継いでいかなければなりません。

 

 

 拙いブログではありましたが、ここまでご覧いただきありがとうございました(^^)/